昭和62年5月、(約40年前のお話です)
尾張徳川家21代当主 徳川美術館(前)館長 徳川義宜氏を訪ねて
名古屋城と本丸御殿(現在)
名古屋城と本丸御殿(戦前・焼失以前)
徳川美術館 新館
名古屋市東区徳川町にある徳川美術館。
財団法人徳川黎明会に所属するこの美術館は、尾張徳川家歴代相伝の「大名道具」多数を収蔵しており、その内容、収蔵点数、保存状態ともに国内においても極めて貴重な存在であるとされている。
尾張徳川家21代 徳川美術館館長 徳川義宣氏 Ⓒ鎹八咫烏
プロフィール
1933年東京生まれ。学習院大学政経学部経済学科卒。
東京大学農学部林学科、東京国立博物館に研究生として学ぶ。
財団法人徳川黎明会評議員、理事を経て、専務理事。
徳川美術館館長を務める。(昭和62年 現在)
主な著書
葉月物語絵巻(木耳社)
琉球漆工芸(荒川浩和氏共著 日本経済新聞社)
茶壷(淡交社)
新修 徳川家康文書の研究(徳川黎明会)ほか
尾張徳川家21代目にあたり 徳川美術館館長でもある、徳川義宣氏(以下徳川)を東京・目白にある財団法人徳川黎明会本部に訪ね、江戸時代の大名の美意識などについておたずねしました…本号はその中から特に徳川家康の考えた「わび茶と能」についてご紹介いたします。
大名にとって相応しい「お道具の美学」
徳川美術館 菊御作 後鳥羽上皇(後鳥羽院)
徳川美術館 鎧兜
徳川美術館 源氏物語絵巻
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徳川美術館には、当時の大名が収集したコレクションはじめ、刀剣・武具類、有名な初音の調度、源氏物語絵巻など非常に多くの美術品が収蔵されていますね。
徳川
今日私達が美術品と呼んでいる種々な材質、形のものは、かっては何かしらの目的を遂行するために用いられた道具です。
美術品という言葉自体、明治以降にできた新しい言葉で、江戸時代はすべて「お道具」と称していました。
私はこれは大変いい言葉だと思うんですよ。美術品というのは横文字のアートオブプロジェクトとか、あるいわ芸術と言った場合はファインアートと言ったりします。
ところが「お道具」となるとちょっとニュアンスが違ってくるんですね。まさに文字どおり、何かを拵え(こしらえ)たりするために使うものです。
それらの「お道具」は、ある時は権力を誇示するために使われたりするものです。
徳川美術館 千利休 茶杓
天正19年(1591)2月、豊臣秀吉に切腹を命ぜられた千利休が自ら削り、最後の茶会に用いた、と伝わる茶杓です。茶会後、古田織部に与えられ、織部は長方形の窓をあけた筒をつくり、その窓を通してこの茶杓を位牌代わりに拝んだと伝えられています。
今年は利休生誕500年にあたります。堺の商家に生まれ、戦国の武将たちと相まみえながら茶の湯の道に生きた利休に思いを馳せて・・・
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単なる美術品ではなく、当時の大名の生活にとってふさわしい道具であったわけですね。
徳川美術館心空庵及び餘芳軒
四畳半本勝手の茶室心空庵と、その東側の十畳広間を中心とした餘芳軒からなる。心空庵は茶室に三畳の水屋と矩折の腰掛待合を付ける。材木商を営んだ大寶正鑑の設計になり、霧島スギや神代材などの銘木や奇木を多用する。数寄屋の趣向を凝らした近代和風建築。
徳川
ええ。ことに家康は幕府をつくって将軍になり、引退した後、自分が獲得した新しい政権にふさわしい武家のお作法を定めました。そのお手本となったのが、室町将軍家です。
しかしながら、それをそのままやるのでは、単なるアナクロニズムになってしまう。そこで、大いに工夫し、改善もしました。
お茶の作法も室町時代には正式の礼法として特に行われていなかったのですが、信長、秀吉の時代にあれほど浸透してしまったものを禁ずるわけにもいかず、改めて武家の礼法の中にとリ入れられました。
家康自身は、わび茶の精神の中に危険なものを見出していたようです。
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それは、どういう意味ですか。
徳川
多少専門的になりますが、わび茶の精神が持っていた、自由に新たな価値を見出していくといった精神は、注意しないと下剋上になってしまいます。
利休は何も、茶というのはこの道具でやれ、と唱えたわけではありません。むしろ、その時、その季節、そのロケーションにふさわしい道具だてを常につくりあげていくことを唱えたのです。
価値というものは常に輾転として定まりがたいものであり、常に新たな価値を見出していくところにこそ意義だあるというこの哲学は、政治にとっては危険思想であったわけです。
そこで家康は、わび茶をひとつの作法として新しい形式として定めてしまった。
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しかし、家康が文武両道を推奨したことによって大名が文化を嗜む(たしなむ)ようになり、それが江戸時代の文化に多大な影響を及ぼしたことには違いありませんね。
徳川美術館 大名の室礼 -書院飾りー
大名の公式行事に用いられた広場には、床(とこ)・違い棚(ちがいだな)・付書院(つけしょいん)といった、さまざまな道具が飾られる専用の空間が備えられていました。
徳川
とりわけ家康は「文」には力を入れていましたからね。但し、大名自身は学者になるな、とは言っていました。それはつまり、そばに優れた知識人を置いて学べということだったわけです。
そういう意味からすれば、私は不肖の子孫とでも言いましょうか(笑)
先ほど足利将軍家が手本であると申し上げましたが、その中に「室礼」というお作法がありまして、それによると人間の行動は勿論、部屋をどのように飾り付けるかということも、足利時代にはすでに出来上がっていたわけです。
それらは、書院の飾りとか広間の飾りと称されていますが、茶の場所の飾りというのもありました。
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今日でも、お茶の世界には各家元それぞれの飾り方がありますね。
徳川
ええ、ですが、それでもやはり武家の飾りとは随分違います。
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途中ですが、長くなりますので、お話は「能舞台」「能衣装」に移ります
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徳川美術館 雷文と九曜星に大柄の菊花文を配した能装束
徳川美術館 能装束「白地霞に藤文金襴長絹」(左)と「浅葱地柳に燕文単狩衣」(右)
たわわに花をつける金色の藤、風に揺れる枝垂れ柳とその間をすり抜けて飛ぶツバメたち、白と浅葱の絹の質感は凜として美しく、能舞台の前に立つと爽やかな風を感じるようです。
徳川
かって「能舞台」は、大名の殿舎の中庭には必ずと言っていいほどあったものです。ここで軽く盃を酌み交わし、食事をしながら、すぐ目前にある能舞台の演能を楽しみました。
徳川美術館には、能装束が沢山収蔵されておりますが、やはり能装束というのは能という舞台芸術のためにこしらえられた衣装ですから、能装束そのものを展示して見せるだけでは、よく理解していただけないと思います。
能をよくご存じの方なら、どの舞台でどのように使われていたかを想像していただけますが、現代では能などめったに見ない方のほうが多い。想像しろという方が無理です。ですから、その背景を一緒に提示しなければ展示する意味がありません。
我々の先祖が、いかなる思いでそれらをこしらえ、それらを楽しみ眺め、どのような美しさを発見していたのか、という観点も忘れてはいけないと思います。
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確かにおっしゃる通りですね。耳が痛いです・・・大変勉強になりました。
※本号ではお話しいただいた一部分しかご紹介できませんでした。
機会をつくり、テーマごとに何回かに分けご紹介できればと思っております。
(合掌)
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(順不同・敬称略)
財団法人徳川黎明会
徳川美術館 〒461-0023名古屋市東区徳川町1017 電話: 052-935-6262
名古屋市役所 〒460-8508 愛知県名古屋市中区三の丸三丁目1番1号 電話:052-961-1111
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話:03(5253)4111
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アーカイブ リンク記事をご覧ください。
後鳥羽院像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮 所蔵)
ZIPANG-5 TOKIO 2020後鳥羽院に由緒がある伝承と文化「隠岐諸島の一つ海士町(あまちょう)[1]」
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隠岐国分寺蓮華会舞 毎年 4月21日 隠岐国分寺
国指定無形民俗文化財。弘法大師の忌日に行われる舞楽奉納で、7つの舞が演じられます。また、舞は、奈良時代の宮廷舞踊の面影を残し、中国・東南アジア・インドなどがルーツと思われる面を付けた舞を受け継いでいます。
ZIPANG-6 TOKIO 2020 隠岐の島町(島後)の祭り 後編~隠岐ユネスコ世界ジオパークの魅力~(5)
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水無瀬神宮後鳥羽天皇手形 国宝
隠岐で19年過ごされた後鳥羽天皇60歳の春、ご自身の余命も長くないと覚悟され御自身の両手に朱印を付けしたためられた。これを書かれて2週間後にお隠れになった天皇の御意志である
「我後生を返々とぶらふべし」
との一文により、御霊をこの水無瀬の地にお遷ししてお祀り申し上げた当宮の起源となる宝物である。
ZIPANG-5 TOKIO 2020 後鳥羽天皇の源故郷~水無瀬神宮~(その1)
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裏千家『献茶式』
茶道裏千家家元 千 宗室 氏
ZIPANG-5 TOKIO 2020水無瀬神宮 ~招福の風と音と水~「見渡せば山もと霞む水瀬川夕べは秋となに思ひけむ」(その2)
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隠岐神楽は、石見神楽に代表されるような「見せる神楽」とは異なり、素朴で古風な神楽です。また、出雲や石見の神楽では神職が舞っていたが、隠岐神楽では神楽専業の家系「社家(しゃけ)」が舞っていました。
かつては、隠岐の島町(島後)では13社家、島前では5社家が神楽を行っていましたが、現在では、地域住民によって行われています。
隠岐神楽は、神社への奉納に限らず、豊作・大漁祈願、雨乞い、疫病退散、航海安全、などを祈祷するために行われていました。そのため、巫女が重要な役割を果たしています。
隠岐神楽は、隠岐島前神楽と島後神楽に大別され、両方の神楽に共通する演目でも内容が異なるなど、その芸風に違いがあります。
隠岐島前神楽の特徴は、速めで賑やかな囃子(はやし)に、舞い手が舞台中央の約4畳上や船上で舞います。また、隠岐島前神楽だけの演目(大蛇退治の「八重垣」)もあります。
一方、島後神楽は、周吉(すき)神楽と隠地(おち)神楽に分けられ、悠長な囃子に、舞い手が、舞台中央にある約2畳の大変狭い板張りの上で舞います。
隠岐 西ノ島町 島前神楽
ZIPANG-5 TOKIO 2020 神々の島「隠岐」& 後鳥羽院「海士町(あまちょう)」総集編[3]
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