三ツ山古墳の発掘調査
豊橋市牟呂町にある三ツ山古墳の発掘調査で、東三河最古の横穴式石室が発見されました。約20年前の発掘調査で石室があること自体はわかっていましたが、それが竪穴式なのか横穴式なのかが判明しておらず、今回改めて行った発掘調査で横穴式石室の入り口が発見されました。
発掘調査の担当学芸員は20年前もこの古墳の発掘調査を担当しており、「謎が謎のままで終わらず、長年の謎が解けて良かった」と語ります。またこの古墳は、周辺の古墳では例を見ない特殊な構造をしていることがわかりました。学芸員による詳しい現地説明会を令和4年12月25日に行います。
墳丘の全景
三ツ山古墳は6世紀前葉の前方後円墳で、豊橋市牟呂町の三ツ山公園の中にあります。約20年前の発掘調査で、長方形の石室があることは分かっていましたが、それが竪穴式か横穴式かを見分けるための入り口の部分にはすべり台が設置されており、調査がかなわず謎のままになっていました。
土地区画整理事業で公園整備を行い、すべり台が撤去されたことで、発掘調査が可能になり、横穴式石室であることが確認されました。
三ツ山古墳について、学芸員による現地説明会を令和4年12月25日に実施します。
横穴式石室の入り口
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調査結果の市民向け説明会
学芸員による調査結果の説明や、出土品の展示を行います!
令和4年12月25日(日)10:30~、14:00~
駐車場はJA豊橋西支店の南側駐車場を利用(会場まで送迎あり)
参加料無料、事前申し込み不要
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三ツ山古墳墳丘
平成12年の発掘調査で発見された石室
三ツ山古墳の横穴式石室は、1回だけの葬送で使用した後、入り口に石を積み、さらに土を盛って墳丘を築いています。これは、一般的に追葬を前提とする横穴式石室としては異例の構造です。
担当の岩原学芸員は「古墳の制作技術が、1人だけを埋葬する竪穴式から複数人を埋葬する横穴式へ移り変わっていく途中で、初期の横穴式の特徴と考えられる」と分析します。
入り口部分で、壁の役割を果たす左右の石積みは比較的良好な状態で残されています。また裏込めに使用された石は、後に作られた古墳と比較すると非常に大きいものが使用されており、これも初期の横穴式石室の特徴と考えられます。
岩原学芸員は20年前にもこの古墳の発掘調査を担当しており、「わかりませんでした、で終わらせたくなかったので、今回謎が解けて良かった」と感想を漏らしますが、発掘調査を進めるうち、さらなる謎があることがわかってきました。
謎の一つ目は、まだ発見されていない石室の可能性です。今回発掘調査を行っている石室は、前方後円墳の「くびれ」から少し前方部よりの部分にありますが、三ツ山古墳にはもう一つ、後円部にも石室があることが分かっています。
一つの前方後円墳から複数の石室が発見されることは、非常に珍しいことで、加えて、それぞれの石室の位置が古墳の中心から外れていることから、岩原学芸員は、さらに一~二つの石室が存在する可能性を指摘しています。
後円部に設けたもう一つの調査区
二つ目の謎は、天井石崩落の謎です。入り口左右の石積みが良好な一方で、入り口部分の天井石は崩落しており、本来の位置をとどめていません。
石室入り口のすぐそばから11世紀の土器が出土していることや現場の状況により、平安時代のうちに崩落していたと考えられます。
平安時代には、密教の僧などが古墳時代の石室を利用して修行をすることがあり、三ツ山古墳もその可能性があると考えられます。
石室内部の刀や馬具、須恵器といった副葬品が無事だったことが大きな理由ですが、盗掘を狙った可能性も捨てきれないと岩原学芸員は考えています。
石室の入り口を上からみたところ
三ツ山古墳に埋葬された人物は、かつて港として使われた三河湾の入り江だったこの地を治めた豪族で、海上交易で栄えたと考えられます。
前方後円墳という和(倭)式の大きな特徴を有しながらも、当時渡来して間もない朝鮮半島由来の横穴式石室が造られた三ツ山古墳は、日本と朝鮮半島のハイブリッド古墳と言えます。しかし、この地方には同時代の古墳が少なく、これらの技術がどのように伝播してきたのか、という大きな謎が残ります。
三ツ山古墳の全容を明らかにするために大きな障壁となっているのが、この古墳がこれまでたどってきた歴史です。
現在は「閑静な住宅地の中にある公園の中の小高い山」という印象を持ちますが、この地はかつて、古墳から程近くにある坂津寺の境内の一部でした。江戸時代に、坂津寺の住職がこの地の景観を豊かにしようと、古墳に土を盛り三つの山に作り替えました(このことから「三ツ山」と名付けられました)。
また、太平洋戦争中には、古墳内部に防空壕が造られ、その建設作業時に石室の一部が破壊されました。これらの影響で、本来は全長約38メートルだった古墳が、現在では約30メートルしか残っていません。
一方で、古墳の傾斜を利用してすべり台が設置されていたように、市民の憩いの公園として長らく親しまれてきた場でもあります。
公園整備に伴って新しく設置される遊具には、かわいらしい埴輪(はにわ)のイラストが用いられることになっており、これから公園を利用する子どもたちにも、古墳を身近に感じてもらいたいものです。
三ツ山古墳の全容解明がなされることを期待します。
調査前の三ツ山古墳
問合せ先
豊橋市文化財センター(豊橋市美術博物館内)
〒440-0801愛知県豊橋市今橋町3-1 豊橋市美術博物館内 電話:0532-56-6060
豊橋市美術博物館
豊橋公園(吉田城址)の一角にある豊橋市美術博物館では、郷土にゆかりのある歴史・考古・民俗資料・美術を中心に収集・展示。会期ごとに常設展示を入れ替え紹介がされています。また、様々なジャンルの企画展や講座の開講をしており、貴重な資料や美術を見ることができます。
昭和54年12月 中部建築賞受賞
昭和55年2月 中部電力省エネルギー建築賞受賞
豊橋市美術博物館
〒440-0801 愛知県豊橋市今橋町3-1(豊橋公園内)電話:0532-51-2882
※豊橋市美術博物館では空調等改修工事のため、下記の期間全館休館いたします。
休館期間 令和4年10月17日~令和5年度後期
付属する「美術博物館駐車場」は工事のため駐車スペースを制限します。
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鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(順不同・敬称略)
豊橋市美術博物館
豊橋市文化財センター
紅山子(こうざんし)
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アーカイブ リンク記事をご覧ください。
日本本土と大陸の中間に位置することから、長崎県の島は、古代より、これらを結ぶ海上交通の要衝であり、交易・交流の拠点でした。
特に、朝鮮半島との関わりは深く、壱岐は弥生時代、海上交易で一支国として栄え、対馬は中世以降、朝鮮王朝との貿易と外交実務を独占し、中継貿易の拠点や迎賓地として栄 えた歴史が残っています。
壱岐 原の辻遺跡
ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~古代からの架け橋~日本遺産認定「国境の島 壱岐・対馬・五島」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4615487
「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、17の考古遺跡で構成される。 北東アジアにおいて長期間継続した採集・漁労・狩猟による定住の開始、発展、 成熟の過程及び精神文化の発達をよく示しており、農耕以前における人類の生活の在り方と、精緻で複雑な精神文化を顕著に示す物証である。
世界遺産 青森県 縄文三内丸山遺跡
ZIPANG-5 TOKIO 2020「北海道・北東北の縄文遺跡群」のイコモス勧告「世界文化遺産登録」について(Ⅰ)
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百舌鳥・古市古墳群は、古墳時代の最盛期であった4世紀後半から5世紀後半にかけて、当時の政治・文化の中心地のひとつであり、大陸に向かう航路の発着点であった大阪湾に接する平野上に築造された。
世界でも独特な、墳長500メートル近くに達する前方後円墳から20メートル台の墳墓まで、大きさと形状に多様性を示す古墳により構成される。墳丘は葬送儀礼の舞台であり、幾何学的にデザインされ、埴輪などで外観が飾り立てられた。
本資産は、土製建造物のたぐいまれな技術的到達点を表し、墳墓によって権力を象徴した日本列島の人々の歴史を物語る顕著な物証である。
大阪 百舌鳥・古市古墳群 空撮
ZIPANG-3 TOKIO 2020 速報 「『百舌鳥・古市古墳群』大阪初の世界文化遺産に認定か・・・」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6237030
国内では毎年約9,000件の発掘調査が実施されていますが、その成果を知る機会は極めて限られています。埋蔵文化財に親しみ、その保護の重要性に関する理解を深めることを目的としてスタートのが、この「発掘された日本列島展」です。
ミミズク土偶
ZIPANG-5 TOKIO 2020「発掘された日本列島2021」展がスタート!「史跡」「名勝」「天然記念物」【文化庁】
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/18152338
青谷横木遺跡から国宝「高松塚古墳壁画」に次ぐ女子群像絵画発見!
一般国道9号(鳥取西道路)改築事業に伴い、平成25年度から27年度にかけて発掘調査を実施した「青谷横木遺跡」で見つかった古代の官道「山陰道」を構築した際の盛り土の中に、女子群像を描いた古代の板(長さ約70cm、幅15.5cm)が含まれていたことが分かりました。
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ZIPANG TOKIO 2020 速報「鳥取県 青谷横木遺跡から全国で2例目 国宝『高松塚古墳壁画』に次ぐ古代の『女子群像』を発見」
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明日香村の色は日本の色
明日香村 東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武「飛鳥の色は四神の色か…」
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ZIPANG-3 TOKIO 2020「明日香村に再発見!『陽の光・水・空気・大地』はその儘、古代飛鳥の風土色。 そして佐藤栄作(元)首相英断の明日香法とは・・・」
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ガンガラーの谷は、数十万年前までは鍾乳洞だった場所が崩れてできた、豊かな自然が残る亜熱帯の森。約1万8000年前に生きていた「港川人」の居住区としての可能性も高く、今も発掘調査が行われ、「自然」や「命」に思いを巡らせながら体感していただくことをコンセプトにしています。谷の広さは約14500坪、歩行距離は約1㎞。足を踏み入れて初めて分かる、広大な太古の世界が広がっています。
港川人とは、沖縄県南部の石灰岩採石場で1970年に化石人骨として発見された人類です。
発見された4体の内、港川人1号と言われる1体は、人骨は頭の先から足の先まで骨が揃い、保存状態が非常によく、現代の私たちに多くのことを教えてくれています。
彼らは、約2万年前に実際にこの地に生きていた、旧石器時代の人類。
身長はおおよそ150cm前後で、現代人に比べると小柄です。その骨格から、森の中を歩き回りながら狩猟採集の生活をしていたであろうと推測されています。
現在判明している最古の人類は、アフリカ中部で発見された約700万年前のチャド猿人。
その後、様々な人類が誕生しては消滅していきました。そして、私たちホモ・サピエンスは、今からおよそ20万年ほど前にアフリカで誕生し、その後、今から約6万年前に我々の祖先はアフリカを飛び出し、世界中へと旅立っていったと言われています。
では、私たちの祖先はどのような経路で日本に辿り着いたのでしょうか。
港川人の発見は、日本人のルーツを握る重要な手がかりとなっています。
この地沖縄で暮らしていた港川人が、海を越え日本本土に渡り、日本人の祖先となった可能性があります。
遠くアフリカから沖縄にたどり着いた先人たちは、この地沖縄を飛び出し、また北へと向かう旅を続けたのではないでしょうか?
沖縄 ガンガラーの谷 発屈
ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~ 生命の神秘をたどる旅とは ~「 あなたはもう行きましたか ⁉ 今、世界が注目する ガンガラーの谷へ」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6373788
※現在、1900件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。
最新の記事をご覧いただけます。
ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
https://tokyo2020-6.themedia.jp/
最近の記事をご覧いただけます。
ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
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250件ほどの記事をご覧いただけます。
ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/
235件ほどの掲載記事をご覧いただけます。
ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
https://tokyo2020-3.themedia.jp/
200件ほどの掲載記事をご覧いただけます。
ZIPANG-2 TOKIO 2020(VOL-2)
https://tokyo2020-2.themedia.jp/
615件ほどの掲載記事をご覧いただけます。
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