ZIPANG-6 TOKIO 2020「岡本太郎の1世紀」開催

公益財団法人岡本太郎記念現代芸術振興財団 岡本太郎記念館(所在地:東京都港区南青山6-1-19、館長:平野暁臣)は、企画展「岡本太郎の1世紀」を2022年7月20日から11月20日まで開催いたします。


岡本太郎 画伯 アトリエ兼住居にて(現在は岡本太郎記念館) Ⓒ鎹八咫烏


「本年7月から、当財団も主催者の一員として参画する展覧会『岡本太郎』がスタートします。

質・量ともに岡本太郎史上例のない規模で展開する回顧展で、大阪・東京・名古屋を巡回。太郎の代表作が勢ぞろいするだけでなく、岡本芸術の全体像を一望に収める貴重な体験を提供するものです。

本展では、この回顧展にちなみ、84年にわたる岡本太郎の芸術人生はもとより、没後のさまざまなプロジェクトや20年を超える当記念館の活動を一覧します。

第一展示室では、1940年代から1980年代までの創作の歴史を、第二展示室では没後の活動を紹介。太郎が日本での活動をはじめた直後に描いた秘蔵の作品(1947)もお目見えします。

「岡本太郎の1世紀」をめぐるショート・トリップをどうぞお楽しみください。

                          岡本太郎記念館館長 平野暁臣     



芸術は爆発だ! 岡本太郎画伯



アトリエにて作品制作中の岡本太郎 画伯



ようこそ爆発空間へ

岡本太郎記念館


ようこそ爆発空間へ 岡本太郎記念館 外観(戦後建てたアトリエ、坂倉準三の設計)


岡本太郎記念館インテリア(当時は手前にある座るのを拒否する椅子はガーデンに…


岡本太郎記念館 ガーデン(植物の成長が歳月の流れを物語っています…)


ここ岡本太郎記念館は、1996年、84歳で亡くなるまで、岡本太郎のアトリエ兼住居だった。1954年から40年以上彼が生活した空間である。


スペイン・バルセロナ グエル公園 Ⓒ鎹八咫烏
アントニオ・ガウディ設計によるギリシャ神話を取り入れた86本の列柱


大阪万国博覧会「太陽の塔」岡本太郎画伯制作


バルセロナ・グエル公園の市場として作られたドーリア式の建築様式の列柱。86本の柱の天井部分に、ガウディ発明による破砕タイルの手法が活かされており、現地を訪ねた岡本太郎画伯は、感動して、その後制作した大阪万国博覧会の太陽の塔の参考としたと言われています。 


絵を描き、原稿を口述し、彫刻と格闘し、人と会い、万国博の太陽の塔をはじめ巨大なモニュメントや壁画など、あらゆる作品の構想を練り、制作した場所。

彼のエネルギーが今も満ち満ちている。

更に言えば、ここは戦前は青山高樹町三番地。

岡本一平・かの子・太郎の一家が永く暮らし、一家でヨーロッパへ旅立ったのもこの地からだ。旧居は戦災で焼失した。

戦後、友人の坂倉準三の設計でアトリエを建てた。

ル・コルビュジェの愛弟子だった坂倉は太郎の求めに応じ、ブロックを積んだ壁の上に凸レンズ形の屋根をのせてユニークな建物を作った。当時話題をよんだ名建築だ。

岡本太郎の作品は一人の人間の枠を超えて多彩にひろがる。そのすべてがここから閃き出た。膨大なデッサンやエスキース、彫刻、また戦後文化のうねりを伝える資料の山。

「岡本太郎の1世紀」ご期待ください。


岡本太郎画伯 題不詳(1947 年)


岡本太郎画伯 『母と子』(1981 年)


岡本太郎画伯『顔の花』


岡本太郎画伯『黒い手』



■開催概要

会期     : 2022年7月20日(水)~2022年11月20日(日)

開館時間   : 10:00~18:00(入館は17:30まで)

休館     : 火曜日

会場     : 岡本太郎記念館(東京都港区南青山6-1-19)

アクセス   : 銀座線・千代田線・半蔵門線『表参道』駅より徒歩8分

入場料    : 一般 ¥650/小学生 ¥300


施設設備について

記念館の駐車スペースはございません。

館内は靴を脱いでお上がり頂いています。

館内ではベビーカーがご利用頂けません。

交通案内

東京メトロ

【銀座線】・【千代田線】・【半蔵門線】 『表参道』駅より徒歩8分

都営バス(渋88系統)

【新橋駅前行】【渋谷駅前行】 『南青山六丁目』下車徒歩2分



岡本太郎とは

岡本太郎1911〜1996→


岡本太郎 画伯 アトリエ兼住居にて(現在は岡本太郎記念館) Ⓒ鎹八咫烏


【1】パリが生んだ異端


岡本太郎画伯も見ただろうか⁉刺激的なパリ街角のだまし絵 Ⓒ鎹八咫烏


エクトル・ギマールデザインによるパリ アールヌーヴォー メトロの入口 Ⓒ鎹八咫烏


〈1-1〉 極東の日本から世界の芸術の中心に

1929年、岡本太郎は18歳でパリに渡った。日本から遊学する画家達が日本人だけで固まり、帰国後の凱旋展を夢見てお定まりの風景画を描いている姿に失望した太郎は、フランス社会で自立したいと考え、私学の寄宿生となってフランス語を磨き、西洋の教養を身につけていく。やがてモンパルナスにアトリエを構え、1940年にパリを離れるまで10年以上にわたって1930年代のパリで唯一無二の経験を重ねた。


〈1-2〉 純粋抽象からシュールレアリスムへ

1933年、「アプストラクシオン・クレアシオン協会」に最年少メンバーとして参加。「空間」「コントルポアン」などの連作を発表。1937年、サロン・デ・シュールアンデパンダンに「傷ましき腕」を出品。純粋抽象と決別し、同協会を脱退する。一方、同作をアンドレ・ブルトンが高く評価、翌年の第一回国際シュールレアリスト・パリ展に招待する。エルンスト、ジャコメッティ、マン・レイ、タンギーらシュールレアリストとの親交が深まる。岡本太郎は二つの前衛芸術運動の最先端をともにリアルタイムで体験した希有な芸術家なのである。


〈1-3〉 ミュゼ・ド・ロムでマルセル・モースに学ぶ

1938年、パリ大学で哲学を学んでいた太郎はミュゼ・ド・ロムを見て衝撃を受け、民族学科に移籍。レヴィ=ストロース、ミシェル・レリスらとともにマルセル・モースに学び、一時は筆を折って研究に没頭する。このときの体験が「芸術は商品ではない」「芸術は無償、無条件であるべきもの」「芸術とは全人間的に生きること」という太郎の芸術観を醸成した。1975年、太郎はジャン・ルーシュのドキュメンタリー作品「マルセル・モースの肖像」に出演。


〈1-4〉 バタイユとの邂逅

一方、エルンストに誘われた政治集会「コントルアタック」でジョルジュ・バタイユと出会い、その演説に深く共感。以後、親交が深まり、「社会学研究会」に参加。ついには秘密結社「アセファル」に加わる。戦後の作品「夜」「電撃」はこのときのサンジェルマンの森での秘儀体験がモチーフといわれる。レリス、ロジェ・カイヨワ、ピエール・クロソウスキー、パトリック・ヴァルドベルグら、世界的な知性と親密な交友を結ぶ。


〈1-5〉 ただひとりの日本人

抽象からシュールレアリスムへ。芸術から哲学へ。抽象論理の世界から人間学のフィールドへ。さらには呪術的な秘密結社へ。岡本太郎は、20世紀芸術の新たな潮流の胎動に生々しく立ち合い、同時に30年代パリが生んだ知の最前線を全身で浴びた、たったひとりの日本人である。それどころか、こんな人物は世界を見渡してもおそらく例がないだろう。岡本芸術に通底する美意識は「自由」「誇り」「尊厳」だ。太郎の肉体にそれを刻んだのは30年代のパリだった。


【2】たったひとりの闘い

〈2-1〉 ゼロからの出発


1940年、岡本太郎は戦時体制下の日本に帰還する。間もなく初年兵として徴兵されて戦場へ。自由の国・フランスから対極的な軍国主義の闇に投げ込まれる。戦後、中国での収容所暮らしを経てやっと辿り着いた青山の家は空襲で焼け野原になっていた。アトリエもパリ時代の作品も、すべてを失った。待っていたのは文字通りゼロからの出発だった。


〈2-2〉 “ガラパゴス”での闘い

活動を再開した岡本太郎は新聞紙上に「絵画の石器時代は終わった」と宣言。ただ鑑賞するだけの「美術」の時代は終わった、西欧の芸術精神が獲得した自由の恩恵を受ける時代が来たのだ、と続け、長老中心の権威主義的な日本美術界にひとり宣戦布告する。ワビ・サビ的美学に支配されていたガラパゴス的美術界に強烈な原色を叩きつけるとともに、出版や講演などの啓蒙活動も積極的に開始。芸術とはなにか、アヴァンギャルドとはなにか、創造とはなにか…。革新的な名著を次々と発表し、挑発的な言動で社会に問題を提起していった。


〈2-3〉 対極主義

「これからのアヴァンギャルド芸術の精神には、非合理的な情熱のロマンティスムと、徹底した合理的な構想が、激しい対立のまま同在すべきである。この異質の混合や融和を私は考えない。二つの極を引き裂いたまま把握する」。「対極主義」と名付けたこの芸術思想を引っさげ、岡本太郎は次々と問題作を社会に送り出す。日本での活動再開後すぐに「重工業」「森の掟」などの大作を続々と発表し、アヴァンギャルドのリーダーとして美術界に旋風を巻き起こしていった。


〈2-4〉 日本の“発見” 

一方、作品制作の傍らで、「日本のオリジン」「日本の原風景」の探索に傾倒し、革命的な仕事を成し遂げていった。「縄文の発見」がその代表である。考古学の分析対象でしかなかった縄文土器に美を見出し、芸術のフィールドに引き上げるとともに、その精神のありようを称賛した。さらに日本全国を縦断取材し、民族学の視点から各地に息づく日本の原風景を読み解いていった。近年、彼が撮影した写真は当時の貴重な民俗資料として再評価され、各地の伝統・風俗をテーマにした数々の文化論も再び脚光を浴びている。彼が発見した日本の原風景が普遍的な世界とつながっているからだ。


〈2-5〉 「多面体」として

1950年代に入ると、岡本太郎は次々と表現領域を拡げていった。彫刻、レリーフ、壁画、舞台美術、グラフィックデザイン、プロダクトデザイン、書、建築、家具、インテリア、写真、評論、パフォーマンス……etc。銀座の夜空にヘリコプターで絵を描いてみせたのも、日本ではじめて飛行船に絵を描いて飛ばしたのも、岡本太郎だった。岡本太郎は、日本の芸術家では類を見ない「多面体」だった。


【3】万博史の異物

〈3-1〉 史上最大の万博

1970年、高度経済成長に湧く日本で万博が開かれた。〝先進国クラブ〟への入会がかかった一世一代の国家プロジェクト。そのテーマ展示プロデューサーに選ばれたのが岡本太郎だった。彼は高さ70mの巨大なモニュメント「太陽の塔」を会場中央に突き立てる。その強烈かつ異様な光景は日本人の脳裏に強烈に刷り込まれ、日本の芸術作品のなかで最大・最強のアイコンになった。同時代を生きた日本人で岡本太郎と太陽の塔を知らぬ者はいない。大阪万博は6400万人の入場者を集めたが、これは万博史上の最高記録で、いまも破られていない。


〈3-2〉 反博の巨像

19世紀半ばに誕生して以来、万博は近代主義を体現するものとして「技術と産業の進歩が人類を幸せにする」をメッセージしてきた。だが太陽の塔はそれを真っ向から否定している。太古の昔からそこに立っていたような土俗的な造形は、〝近未来都市〟の風景をひとりでぶち壊すものだ。岡本太郎は万博を支える安直な進歩主義にひとりNon!をつきつけた。前衛が国家に加担するのかと批判された彼はこう言って笑った。「反博?なに言ってんだい。いちばんの反博は太陽の塔だよ」。太陽の塔は万博史に残るただひとつの異物だ。


〈3-3〉 反モダニズム・反伝統主義

岡本太郎は「日本人の価値基準は二つしかない。西欧的近代主義と、その裏返しとしての伝統主義すなわち〝わび・さび〟的日本調だ」と言った。「その両方を蹴飛ばして、原始と現代を直結させたような、ベラボーな神像をぶっ立てた」。それが太陽の塔だ。まさしく対極主義の実践だった。彼は「五重の塔ではない日本。ニューヨーク、パリの影でない日本」をつくろうとした。岡本太郎は日本人を奈良時代から続く文化コンプレックスから解放しようとしていたのである。


〈3-4〉 ミュゼ・ド・ロムへの思い

一方、岡本太郎がプロデュースしたテーマ展示も異端だった。「人類の進歩と調和」というテーマを解説する職責を担っていたはずなのに、テーマ展示の予算とスペースのほとんどを生命の誕生から原始社会の営みまでを描くことに費やしたのだ。他館が未来技術でプレゼンスを競っているときに、生命の誕生、祈り、渾沌などを謳い、世界から仮面や神像を集めて呪術的な展示空間を現出させた。「万博の価値観なんか信じるな」「人間の根源に帰れ」というメッセージを送るためだった。そして裏にはもうひとつの動機があった。日本版ミュゼ・ド・ロムをつくることだった。実際、万博から7年後に、このときの収集資料がベースになって国立民族学博物館が誕生した。


〈3-5〉 愛された前衛

太陽の塔は大阪万博のシンボルとなって日本人の脳裏に深く刻まれた。当時を生きた日本人で岡本太郎を知らぬ者はいない。大衆に愛された太郎はその後も全国で数々のパブリックアートを手掛け、1975年には撤去されるはずだった太陽の塔の永久保存が決まった。市民の保存運動が実を結んだのだ。岡本太郎は日本でただひとり大衆にリーチした前衛芸術家だった。


【4】 若者たちの太陽

〈4-1〉 いま、ふたたび岡本太郎ブームに

1996年、岡本太郎は84年の生涯を閉じた。パーキンソン病を患った晩年には活動の停滞を余儀なくされ、多くの著書も絶版になっていた。だがこの状況は没後わずか数年で一変する。1998年には岡本太郎記念館が、翌1999年には出身地の川崎市に岡本太郎美術館が開館し、絶版本の復刊と併せて関連書籍も次々と刊行されている。近年では、岡本太郎を扱った展覧会は全国で20~30本/年、新聞・雑誌等の掲載件数は1500~2000件/年に達し、関連書籍は100冊にのぼる。メディアもこの特異な現象に注目し、「いまなぜ岡本太郎なのか?」をテーマとする特集記事が相次いでいる。


〈4-2〉 若者たちの太陽

この岡本太郎ブームの中心にいるのは、リアルタイムの彼を知らない若者たちだ。岡本太郎の強烈な作品や言葉が、眼の前に立ちはだかる閉塞感を切り裂いてくれるものと映っているのだ。「元気をもらいました」「これで先に進めます」「壁にぶつかったらまた来ます」……etc。記念館のスケッチブックには若者たちのこうした言葉で溢れている。彼らにとって岡本太郎は「過去の偉人」ではなく、未来に向かってともに生きていく〝ライブな存在〟なのである。いま、「岡本太郎という生き方」に対する共感の輪が広がっている。こんな芸術家はこれまで日本にはいなかったし、いまもいない。


〈4-3〉 二つのミュージアム

このムーブメントを支えているのはふたつのミュージアムだ。岡本太郎記念館は、彼が40年以上にわたって創作の拠点にしていたアトリエ・住居をそのまま公開したもの、川崎市岡本太郎美術館は新設の公立個人美術館だ。前者は規模は小さいが生々しい太郎の気配に満ちていて、若者たちの聖地になっている。一方、後者は5000㎡の大規模美術館で、岡本作品のほぼすべてを収容し、高さ30mの巨大モニュメント『母の塔』も設置されている。両者は補完しながら岡本芸術を社会に送り出している。


〈4-4〉 「明日の神話」の奇跡

太郎をめぐるこのムーブメントが本物であることを証明する出来事が実際に起きた。1969年にメキシコで描かれたまま行方不明になっていた巨大壁画『明日の神話』(30m*5.5m)が2003年秋に発見されたのだが、再生を願う多くの人々のサポートにより、驚くべきスピードで復活したのだ。万の単位の人々から浄財が集まり、修復完了後の公開には50日の会期に200万人が詰めかけた。壁画は2008年に東京・渋谷駅に恒久設置され、若者の街の新たなシンボルとして大きな話題になった。


〈4-5〉 2011年が「生誕100年」

2011年に生誕100年を迎えた。大規模な回顧展をはじめ、数々のイベントが予定されている。岡本太郎をめぐるムーブメントがさらに次のステージにジャンプすることは間違いないだろう。



『明日の神話』再生へ

岡本太郎が描いた幻の巨大壁画


岡本太郎画伯 明日の神話(撮影:日比野武男)


2003年秋、長らく行方がわからなくなっていた岡本太郎作の巨大壁画『明日の神話』がメキシコシティ郊外で発見されました。

描かれているのは原爆が炸裂する悲劇の瞬間です。

しかしこの作品は単なる被害者の絵ではありません。

人は残酷な惨劇さえも誇らかに乗り越えることができる、そしてその先にこそ『明日の神話』が生まれるのだ、という岡本太郎の強いメッセージが込められているのです。

『太陽の塔』と同時期に制作され、“塔と対をなす”といわれるこの作品は、岡本太郎の最高傑作のひとつであり、岡本芸術の系譜のなかでも欠くべからざる極めて重要な作品です。

しかし、残念なことに、長年にわたって劣悪な環境に放置されていたため、作品は大きなダメージを負っていました。

そこで、当財団は、この作品を日本に移送し、修復した後に広く一般に公開する『明日の神話』再生プロジェクトを立ち上げました。

2006年6月には修復が完了、同年7月に汐留にて初めて行われた一般公開では、50日間という短期間の中で述べ200万人の入場者が集まりました。

後、作品は東京都現代美術館にて2007年4月から2008年6月まで公開され、2008年3月に渋谷に恒久設置することが決定、11月18日より渋谷マークシティー連絡通路内にて公開が始まりました。

多くの皆様に支えられ、『明日の神話再生プロジェクト』はようやく大きな節目を超えることができました。ほんとうにありがとうございました。

これからも『明日の神話』の物語は続きます。

引き続き御支援下さいますようお願い申し上げます。




岡本太郎画伯との想い出


岡本太郎 画伯 アトリエ兼住居にて(現在は岡本太郎記念館) Ⓒ鎹八咫烏

岡本太郎画伯二回目のインタビューはご機嫌でした…


なんだ、これは!

名古屋で世界デザイン博覧会が開催される3年ほど前だったでしょうか⁉
インタビューや、児童の絵画コンクールの打ち合わせのため数回にわたり青山のアトリエ兼住居を訪ねたことがある。岡本画伯の作品のおかれているリビングに入るなり、養女の敏子さんからまず、注意されたことがある。


「岡本は、相手の話や質問が全くつまらないと思うと、何も言わずプイ~と勝手に席を立ち二階に上がり2時間でも3時間でも戻ってこないことがあるので承知しておいてください」と・・・


今、作品制作中なのでしばらくお待ちくださいと言われ、30分ほど待っているとアトリエから岡本画伯が現れたので、名刺を差し出し丁寧にご挨拶をして敏子さんに促され応接椅子に腰かけ話を始めた途端に岡本画伯は「つまらん話だ」と言わんばかりの顔をして、何も言わずに席を立ちそのまま二階に行ってしい、その日は2時間たっても戻って来られないので、敏子さんが「岡本には話しておきますから来週また来てください」エエッ・・・絶句!岡本画伯の決め台詞『なんだ、これは!』と叫びたいところでしたがジッとこらえ再び訪ねたのでした。


岡本太郎《アドレッサン》《遊ぶ時間》

“赤”と“黒”。岡本絵画を象徴する色です。
「赤の中から生まれ、赤の中に生きているという感じがする」というほど幼い頃から“赤”が好きだったそうです。


小生にとって二回目のインタビューは、締め切りが迫っており背水の陣でした。
まず見た目が肝心と思い、(想像しただけでも笑われそう🤡)服装は、岡本太郎画伯の好きな色「赤と黒」でコーディネイト、お土産代わりにといきなり歌を一曲、アカペラで~赤と黒とのドレスの渦に~・・・鶴田浩二の「赤と黒のブルース」を披露したところ、突然まさに爆発だ~!と活気に満ちた表情になり…その後、雲隠れ(失礼)は一度もなく無事インタビューは終了できました。(しかし、小生はいまだにあれのどこが爆発だったのか分からず仕舞いですが…)

気分よく帰ろうとすると・・・またまた難題が!

帰り際に岡本太郎画伯から、今度来る時は「枯葉」を頼むと言われ、はい、と返事はしたものの(心の中では、何だって~こっちが爆発したいは!)演歌しかレパートリーがないのに…ジュリエット・グレコのフランス語はとても覚えられないので、シャンソン歌手高英男や淡谷のり子の歌を必死で覚えた⁉…笑えない笑い話のような話を想い出しました・・・


インタビューの中で岡本太郎画伯曰く「僕は以前、名古屋の久国寺という禅寺に頼まれて梵鐘をつくったことがあるんだけど、その鐘にはニョキニョキと何本も角が突き出ていて、この時も最初は随分いろいろ言われたんだ。

『本当に鳴るのか。』と、僕は別にならなきゃ鳴らないで中にカセットテープか何か仕掛けておけばいいって思ってたんで、既成の形を無視して自分の思うままにまず、小型の鐘をつくった。(庭に置いてあったものを実際に鳴らしてみせ、君も突いてみなさいと誘われた)それを桑名の釣鐘師に見てもらったんだ。

はじめは『鳴りませんよ』と言っていた釣鐘師が、いざ、鋳造に取りかかってそれが完成した時、『鳴りました。今まで聞いたことのない、とても不思議な音色です。』と言ってきた。

僕は、何かを創ろうとする時に、人の目なんか気にしない。
他人を否定し、自分をも否定してこそ、その瞬間瞬間にエネルギーが燃えるんだ。人に好かれるものをつくろうと思っちゃダメだ。何もできない。

見た時に『なんだ、これは。』と思われるようなものをつくらなきゃ。」昭和61年の11月頃に取材訪問した折の岡本太郎画伯の言葉ががよみがえってきました。

ご存命なら「デザインコンテスト」審査委員長にピッタリなんだけれど・・・

尚、この「デザインコンテスト」は今のところ「鎹八咫烏の夢」!



久国寺(名古屋)

慶長年間(1596年~1615年)に長国守養が、徳川家康の守護仏出世勝利開運聖観世音菩薩を三河法蔵寺から受け楠山久国寺を創建した。

寛文3年(1662年)の時に安祥長盛和尚が現在の場所に移し、名古屋城の鬼門除けとし、本丸の天長峰の名を取って天長山と改めた。

この由緒ある寺に、岡本太郎画伯が1965年に制作した梵鐘「歓喜の鐘」がある。独創的な形をした圧倒的な存在感がある鐘は、マンダラをイメージしており、上部には無数の角のように腕を突き出した人間、下部には瞑想する仏、動物や魚、妖怪など森羅万象が表現されている。

鐘をつけば、角が共鳴し複雑な余韻がいつまでも鳴り響くそう。除夜の鐘で鐘の音が聴ける。



余適

来年のG7サミットは日本の広島県(岸田首相の故郷)で開催される。世界で唯一の被爆国「日本」。今、世界の平和は日本の手に委ねられた。日本の真価が問われる年となるであろう・・・

そう言えば日原もとこ先生も、広島のご出身…被爆者でした・・・(合掌)



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使



協力(順不同・敬称略)

公益財団法人岡本太郎記念現代芸術振興財団
岡本太郎記念館 〒107-0062 東京都港区南青山6-1-19 電話:03-3406-0801

世界の樹木

紅山子(こうざんし)


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。



アーカイブ リンク記事をご覧ください。


石州「津和野」の町


日本で唯一聖母マリアが降臨された地 石州 津和野 乙女峠マリア聖堂


石州赤瓦の町津和野を走るSL「やまぐち」号


岡本太郎画伯曰く「新潟や…特に印象に残っているのは、出雲大社や石見銀山のある海に面したすべて赤で統一された瓦屋根の町とそれに対抗する日本海の深い青の海の色です・・・」

ZIPANG-2 TOKIO 2020~石州瓦物語 続編(その1)~「石州赤瓦の似合う町をたずねて 。日本で唯一、   聖母マリアが降臨された地 ~津和野~ 」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5585360


ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~文化庁主催海外展~「縄文-日本における美の誕生」展(於フランス・パリ)の開催
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5015534



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ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
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ZIPANG TOKIO 2020 (VOL-1)
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ZIPANG-6 TOKIO 2020

これまでの、日本の精神文化と国土の美しさについて再発見に加えて その1. 全世界との情報の共有化 その2. 偏り、格差のないローカリティの尊重! その3. 美しきものへの学び、尊敬、関心を高める教育と推進

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